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2008年 01月 12日
LIVE-EVILといえば、キース・ジャレットも参加しているマイルス・デイビスのアルバムである。裸の妊婦とヒキガエル人間のジャケットが懐かしい。アルバムタイトルであるLIVE-EVILの元ネタはルイス・キャロルの「シルヴィーとブルーノ」にあるそうだ。「フィネガンズ・ウェイク」の超絶訳者 柳瀬尚紀さんの「日本語は天才である」によると、この回文的な表現は、ルイス・キャロルの言葉遊びのセンスとメッセージが込められているそうだ。悪というのを逆から見ると、すなわち生きているということだ。生きているの裏の意味は悪である。LIVE/EVIL、そう、生邪(正邪でなく)は本質的に一体であるというのが今回の話題である。ちなみに柳瀬さんはLIVE/EVILの訳を
各人 と 咎 という風に二つの漢字を一つにしたり一つの漢字を分離することで成し遂げる。すげえ。 生/邪。これが村上春樹さんにもなると、人間が本源的にもっている邪悪なものとどのように対峙するか、というのを大きなテーマの一つとしているように思う。僕が村上さんの小説を読む限り、邪悪なものを相対化するノウハウをたくさん提示してくれているように思う。ただ、このエントリではそういった人間の存在にまつわる本源的な邪ではなく、状況によって容易に引き起される個人の職業的な邪について話題にしたい。 それなりの期間をアカデミックとビジネスの現場にいた経験から感じることだが、一人の人間としてピアツーピアで付き合うとフツーのイイ人なのに、ある状況ではよくもこんなに簡単に邪悪になれるなコイツと思ったことが何度もある。 ある例は、「研究というのはうまく成果がでないこともある、でもそれは一つの研究なんだ」ということを口にしている研究者がいる。しかし、科研費の継続申請のために成果がどうしても必要な状況になると、口汚く部下を罵り、成果をでっち上げる圧力をかけるのだ。仕方ないので、部下は血のにじむ努力をして、なんとか成果がでるように夜を徹して計算を行うが、大抵あまりうまくはいかない。そもそも、そんな研究テーマを与えたのは上司である研究者である。部下は自分の研究者倫理に沿えば成果でっち上げをせずにその組織を去るしかないし、上司の研究者の名誉と金のために成果をでっち上げたとしてもそのでっち上げの責任は部下が取らされるのだ。 また別の例では、システム開発案件において、要件を曖昧にしたまま決定しない、怠惰で無責任な発注担当者にあたってしまう。仕方ないのでインクリメンタルなプロトタイピングを行って開発を少しづつ行うしかない。動くものを数週間ごとに見せるのだが、ちょっとフィーリングが違うような、というような曖昧な返事しかもらえない。そのうちスケジュールの半ばを過ぎて、発注担当者の上司がこんなものはイメージと違うと言い出す。すると、発注担当者はここで初めて真剣になり、クレームを多発する。いや、だって、いままでプロトタイピングを提出して開発してきたし、画面イメージを常に提示してきたのだし、と反論すると、これで良いと言ったことは一度もないと言いだし、一番最初の曖昧な要件を取り出して、弊社ではこの解釈はこうこうするのが常識だ、という上司の好みにあった要件を定義しはじめる。組織内政治のみに目を向けた仕事を行い、自分の怠慢を隠蔽し、業者にシジフォスの辛苦を強要するのだ。 上記の例からも推測できるのだが、フツーの人がフツーに生活していて、いとも簡単に邪になるのは、フツーの人がその個人より大きい制約条件から圧力を掛けられている場合が多いように思う。社会的名声からの圧力、上司や組織力学からの圧力、借金からの圧力、締切りからの圧力、コミュニティからの圧力などである。つまり状況が個人に職業的邪を強いるということである。一人の人間は弱いから、容易に状況(インセンティブ構造といってもよい)に屈してしまうのだ。専業主婦と過重な住宅ローンを抱えている状況にも関わらず、あなたの起業に参加しようという友人は、状態が悪くなれば容易にあなたを裏切るだろう。 しかし、どうも状況だけが問題でないようなことも多い。名誉と金の欲に捕らわれている研究者だとか、怠惰で不誠実な発注担当者のように、その人間が持つ能力や性格という基本的帰属というのも大きく関係していると思う。もっと言ってしまうと、人を邪にする状況をつくる制約条件を制御できないのは、個人の基本的帰属によるものではないかと思うのだ。個人を邪に走らせるのは制約条件の圧力だが、その制約条件を制御できるかどうかは、個人の基本的帰属に依存しているという具合だ。 さらに言ってしまうと、その個人の基本的帰属は状況の圧力により決まり、さらにその状況は基本的帰属によってきまり、またさらにその基本的帰属は...という具合に、どうもフィードバックループを描くシステムダイナミクスが働いているように見える。これは職業的邪のフィードバックループと言ってもよい。 一度、邪のフィードバックループに取り込まれてしまうと、なかなか抜け出せないから、自分が邪にならないためには、邪のフィードバックループができないようにするための準備と技術が必要だ。僕が個人的に心がけているヒューリスティックは、所属組織に依存しすぎないことと、仕事であってもつまらないことはやらないようにすることである。所属組織に依存しすぎると、その組織からの制約条件により容易に自分を邪に導きやすい。組織に依存しないためには、腕一本で稼ぐことができる普遍的な技術を身につけること、借金を作らないこと、家族を第一にした生活を続けること、いざというときの体力を鍛えておくことなどが必要だと思っている。またつまらない仕事をやり続けることも自分を邪に導きやすくなると思っている。面白い仕事ならば、職業倫理云々言う前にキチンと仕事をするものだからだ。 ルイス・キャロルが込めたメッセージのように、いかにも生/邪は近接しているものである。自分が職業的ダークサイドに落ちないためには、ルーク・スカイウォーカーのように、フォースを使わないといけないのだ。そしてそのフォースを使いこなすためには、絶え間ない鍛錬と事前の準備が必要なのだと思う。
by yutakashino
| 2008-01-12 01:22
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